老人病棟のできごと

 15, 2015 12:29
死にそこなった婆ちゃんの役割 (。-_-。)


車のエンジンを切り、深呼吸を3回する。
母はもとより家族に見放されたような老人たちに、
少しでも元気を分けてあげたいと願う、
私なりのパワーアップ法だ。


「玉ちゃん、おはよう!」

病室中に響きわたる声でベッドに近づく。
母は決まって目を丸くし、可愛らしい笑顔を見せた。


脳梗塞で寝たきりになって5年。
手足の筋肉は痩せ衰え、曲がらない棒状の足首は哀れだったが、
表情を頼りにコミュニケーションできることが幸いだった。

土日しか来れない私は、まず姉が書いた看護日誌に目を通す。
熱の有無や排便状況はもとより、食欲の程度や、機嫌の良し悪しなど、
平日の母の様子を知ることで、
散歩に連れ出せるかどうかの指針にしていたからだ。

「良かったねぇ、玉ちゃん。今日も散歩に行けそうやでぇ……」

オムツを取り替えながら母に話しかけていると、
扉が開いてストレッチャーが運び込まれた。

「安田さんが戻りました。また、よろしくねぇ」

看護師が事務的に声をかけ、彼女をベッドに移し、
点滴のチューブを整えるや否や、あわただしく出て行った。
2週間ほど前にICUに運ばれ、
今度こそはダメかもと噂されていた安田さんの生還だった。


病室は妙に静まり返った。
意外なことに、誰ひとり彼女に声をかけようとしないのだ。
もっとも同室の誰もが、他人の生還を喜んであげるほどの
エネルギーを持ち合わせていないようだった。
私は慌てて彼女のベッドに歩み寄った。

「お婆ちゃん、お帰り! 良かったねぇ」

「ああ、上野さんのネェちゃん。すまんな、また戻って……」

そういうと、老婆はすすり泣いた。

「何で泣くん? 具合がようなって、良かったやんか!」

私は、あっけらかんと答えた。

「わたい情けのうてな……全部聞こえとったんや」

「誰が…何いうたん?」

「看護婦たちがな…。
『院長のことや、まだまだ死なせへんでぇ。
ICUで稼ぐんやしな!』
ちゅうの聞いたし…。

嫁が息子にな……、
『またかいな、どうせなら死んでから電話くれたらいいのに』
ちゅうのも聞えてな。
わたい、意識はっきりしてたんや。
なぁ、ネエちゃん、まだ死ねんやなんて残酷やろ?」

天井に向けた絶望的な目が、救いを求めるように私を凝視した。

(なんてことを……)
一瞬、怒りで顔面がひきつるのを感じた。

私は彼女の手を握りしめ、猛スピードで言葉を探していた。
ありきたりの同情や慰めなど、意味がないとわかっていた。
足腰こそ弱っていたが、明治生まれで高等女学校を出たという
彼女の博学さや、記憶力の確かさを知っていたからだ。

「良かったなぁ、お婆ちゃん!」

唐突にいうと、彼女は怪訝そうな眼ざしを向けた。

「お婆ちゃんはな、人の心を裸にしたんや。
言った本人はそれで気が済んでな、
改めて自分の心を振り返る機会を引き寄せたんや。

私もな、自分はもっと善人やと思ってたけど、
母さんがこうなって、短期間なら
誰でも善人になれるって解かったんや。
病院に通うのが嫌になってな、用事作って、
姉ちゃんに交替してもらったこともあるんよ。
ほんまは遊びに行ってたくせに、やでぇ……」

「へぇ~」

安田は、気のない相づちを打った。

「ほんまなんよ。お婆ちゃんは大したもんや。
考えてごらん。
お婆ちゃんに意識があったと知ったら、
看護師は穴に入りたい気分やろし、
本音をぶちまけた嫁だって、
もう心の飾りようがないもんねぇ。

だから、ここからが肝心……。
人間って本音を吐き出して自分の魂レベルを知ったら、
その次にはね。
自分のために自分を育てようとするんよ。
ねっ!すごくない? 
お婆ちゃんの存在は大したもんだったんよ!」

「わたいが……? 
人の手を煩わせるばかりの、死にそこないのわたいが?」

「そうそう。死にそこなったからこそ、病院側の問題点も見えたんやんか。
あのね、意味なく生きてる人なんておれへんよ。
生きてんのは誰かのために、何かのために必要やからや。
ほんま、お婆ちゃんはベッドで寝てるだけで人の心を裸にしよった。
私の母ちゃんと一緒や!」

言い終わらないうちに、彼女の目から涙があふれた。


私はあわてて母のベッドに戻り、身体を拭く準備にとりかかった。
看護師の軽口や嫁の本音は、レベルの相違こそあれ、
かつての自分に重なるものがあった。
それだけに彼女に言い聞かせたことは、
母に対する懺悔のようなもので、
共に号泣してしまいそうな自分が怖かったのだ。


「このオッパイで大きくしてもらってねぇ、玉ちゃん。
今度は私がお返しする番やからねぇ」

手足とは違って脂肪がたっぶりと残る母の乳房を、
湯気の立つタオルで念入りに拭き、
一丁あがりとばかりに、大きくせり出した腹部を
パンパ~ンと叩いてみせた。

「キャハハハ……」 

めずらしく、母が声を出して笑った。

「ほんま、ええ音やなぁ、ウァハッハハ……」

めったに口をきかない隣の老婆が笑い出し、
次々と病室全体が笑いに包まれていった。


母の散歩をすませ帰り支度を整えると、
私は再び、安田さんのベッドに近づいて耳元でささやいた。

「安田さん、ヘレン・ケラー、知ってる? 
見えない、聞けない、話せないという
三重苦を背負って生まれた女の子の話。
あの本読んで、誰もがサリバン先生のすごさを知ったけど……。

どっこい、サリバン先生がヘレン・ケラーを育てたんではなくてな。
ヘレン・ケラーがサリバンを育てたって、ある本に書いてあったんよ。
私なぁ、それって真実だと思う。

完璧に近い人間ほど、人に世話をかけるというのは苦痛やからね。
ヘレン・ケラーは自尊心を捨てて、
サリバンが成長するための最大限の協力をしたんだって……。
プライド捨て切るってのもスゴイわなぁ……」

いつの間にか、私は安田の枯れ木のような手をなでていた。


空を見つめていた彼女が、私の指を強くつかんで上下に揺すった。

「……ありがと」 

「全然……、ほんまのこと言うただけやよ」

そういいながら、私は母のベッドに戻って帰り支度を整えた。


「バイバイ、玉ちゃん。また来週ね」

病室のドアを開き振り返ると、
弱々しく振る婆ちゃんたちの手が、いくつも見えた。


『死の瞬間』の著者
エリザベス・キュプラー・ロス博士は、
晩年、脳梗塞で寝た切りの生活を強いられた。
死にゆく人々に寄り添った
彼女に与えられた最後の課題は、
プライドを捨てて“
人に自分の世話をさせる”ことだった。




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