意識の旅路 その②

 12, 2018 00:05
図書館の蝶


不可解なバイク事故が起きて以来、私は再び、
見えない世界と、その意義を考えるようになりました。

あの、呼吸する球体はなんだったのか?
なぜ、意識がテレポーションしたのだろう?
あれは、私だった。
私が、球体の中からブルーがかった街並みを見ていた。
人の動きや車の流れが異様にスローだった。

この光景は何だろう。
この自分は誰?
それを考えようとしていたとき、肉体に衝撃が走った。



ということは、ガードレールに衝突する直前に、
私の意識は抜けていたことになるわけです。

二本の歯が歯茎ごと吹っ飛び、
唇の裂傷と顔面の打撲はあったものの
命に別状はありませんでした。
抜糸するまでの間、仕事は休まざるを得ないという、
まさに理想的な怪我の程度に、感心さえしたものでした。

事故の原因について、警察はもちろん
家族からも同じ質問を受けたので“よそ見”と答えました。
事故直前の不可思議な状況を説明したところで、
精神状態を疑われるだけですから。

どう考えても、不慮の事故ではありませんでした。
なんらかの力で、否が応にも目が釘付けにされた意味を、
来る日も来る日も、考え続けました。

タイに向かう飛行機の中でも同じ体験をしました。
意識が離脱し、飛行機の天井辺りから、
窓際に座る小娘(自分)を見ていましたし、
タイの田舎家でも、同じ状態になりました。

抜け出た意識は性別不明。
賢者のような眼差しを小娘に向けているのですが、
(無声映画を見ている感じで小娘の意識は感じ取れない)
この、見ている自分は何者なのか。
それを考えようとした瞬間、元の自分に戻りました。
いずれの場合も、顕在意識(理性)が優勢になると
肉体レベルの自分に戻るわけです。

( ̄~ ̄;)……。
肉体の目で見ているものが全てではない。
空間は、いわゆる空気に満たされているだけではない。
空間には、人の意識がスイッチになる異次元が存在する。
SF映画だと、異次元への入り口は水の扉や、
年代時計の逆行なんかで表現されるけど、
“ただの空間”だと視聴者に説明がつかないからだと思う。

実際は、そんなものじゃない。
球体の中から観た世界は、モザイクがかったホログラムで、
街並みはもとより、車や人の動きの全てがスローモーションだった。
物理次元から異次元は見えないが、
その時の私は、異次元から物理次元を見たことになる。

だから異次元というものはイコール、
“意識次元”のことじゃないかと、個人的には思ってる。
特殊相対性理論の数式なんて端から理解できないけど、
パラレルワードや、ダークマターなどは、
数式で求められるような対象じゃないと思う。
まずは『意識』……。
『意識とはなにか』を研究することが肝心。
量子よりも微細な光の粒子に迫らないと……。

ところで、あの意識体……ハイヤーセルフなんだろうか?



なんとなく、そんなことを考えていました。


バイク事故から5年後、念願の離婚が成立しました。
家も預貯金も相手に渡し、裸同然で家を出ました。

それからは猪突猛進、営業職の販売マシーンと化し、
そこそこの生活基盤をつくるまでに5年かかりました。
ですが、心は砂漠のように渇いていました。

“虚しさに似た孤独感”を振り払おうと、
精神世界系の、あらゆる本を読み漁りました。
中でもシャーリー・マクレーンの
『アウト・オン・ア・リム』は格別でした。
彼女の不思議体験が、自分と酷似していたからです。

本を読み終え号泣……いや、慟哭しました。
全身が震え、椅子から崩れ落ちるほど激しく泣きました。
そのとき、理性的な自分が呆れていました。
この慟哭しているのは誰?
魂レベルの自分?
顕在意識の私は、客観的に観察する余裕があったんです。
第三者がいたとしたら、正に精神分裂を疑ったと思います。

そんなある日、鹿児島の顧客から電話が入りました。
商品の話もせず、彼女から遊びに来るよう誘われました。

『風ちゃん、あんた、働くばかりが能じゃなかとよ。
たまには命の洗濯ば、せんね?……。
なんが遠かね? 飛行機でひとっ飛びじゃなかね。』

この一言で直観が私を扇動し、
5年ぶりの休みをとって鹿児島に向かいました。

友人に誘われた桜島の露天風呂で、
それが起こりました。神秘体験

この体験、親友だけには話しましたが、
『ふ~ん…』で終わりました。
この反応について……。
『神との対話』の著者であるニールが、友人に言われます。
『ニール……僕じゃなくて、なぜお前なんだ?』。
これと同じです。
何十年のつきあいで気心の知れた仲だと、
互いが相手の全てを知っていると思い込んでいるので、
“特別”なんてことは認められない。
人として、それほどの“価値”があるとも思えないわけです。

ですが、“特別”とか“価値”には関係なく、それは起きます。
体外的な側面ではなく、本音の部分になにを抱えているか、なんですねぇ。
長年に渡って切望し、神を脅迫しかねないほどの欲求を秘めている者に、
宇宙が応えるのかも……。今もそう思っています。

!(・。・)b そうそう、余談ですが……。
たぶん、宇宙には秩序とルールがあって、
求道者のレベルに合わせた応答をすると思っています。
光の彩度、頻度、ガイドの有無、移動距離、叡智のレベルに至るまで……。
だから、自分の体験が絶対と思ってはいけない。
人は観たいものを観ますし、見せられますから。(^_^ ;)

もっとも、この手の話はたいてい、
脳の誤作動、錯覚、幻覚の類として、人々の嘲笑を浴びます。
それはそれでいいんです。
信じるか否かは、人の魂の問題。
強盗や殺人、暴君や詐欺師はもとより、
立身出世や、セレブ、名誉、功績を求めている人は、
今生で、その体験を選んだ、というだけのことですから。


ともあれ生活パターンが激変。
仕事量を減らし、ヨガや瞑想にのめり込み、
その筋の書物を手当たり次第に読み耽りました。

この頃、第六感や七感の扉が開いた感じでした。
床について瞼を閉じているのに空間の全てが見えたり(第三の目?)
過去世の断片が蘇ったり、築20年のマンションでラップ現象が起きたり、
やたら電磁波に反応、激しい眩暈に襲われたりしたものです。


営業職を辞し、紆余曲折を経て、過疎の村で鍼灸院を始めた頃、
私の中から忽然と『賢者』が消えました。
ビッグマンと、勝手に呼んでいた意識体です。
村に移住して6年後、高度肝機能障害に陥り
死にかかったときでさえ、無反応だったんです。
それはもう可笑しいほどに、何も感じませんでした。

なぜ?‥‥。
長い間、その理由を考え続けました。

で……勝手な解釈です。

ほんの一部分しか知らないけど、
過去世では相当身勝手で破天荒な人生やってたのかも?
今生、やっと“まともな人間に近づいた”から、
かつての養父(ビッグマン)、安心して去ったのかも? 

だとしたら、交代要員は誰?
どんな魂がついてくれてるんだろう。

すでに10年、問いかけてますが、反応はありません。
ですが毎日、早朝散歩での深呼吸タイムを利用して、
感謝の気持ちを届けています。
これがけっこう、効果的なんです。お勧めですよ。(^_-)-☆


宇宙へ
『私たち光の粒子は、体験しています。ありがとう!
世界の状況は、私たちの責任です!』

守護霊へ
『いつも見守って下さって、ありがとう!』

大いなる自己へ
『閃きを、いつもありがとう、よろしくね!』 


なんてね。(*^▽^*) 


★正月用記事で投稿曜日がズレていましたが、
 次回からは月曜更新に戻します。(*´ェ`*)

魂の旅路 その①

 09, 2018 00:05
雪原




私には、よちよち歩きの頃(1.5歳~2歳)の
鮮明な記憶があります。

母の背中で見た近所の火災と、煙の匂い。(1.5歳)
兄たちの後を追い、天窓のガラスを踏み抜いた瞬間。(2歳)
肝を冷やしたという家族たちの会話。
近所の庭の柿の木の下で聞いた『安寿と厨子王』。(3歳)
母と生き別れた姉弟の悲劇は、今も記憶に残ったままです。

八幡浜市内から佐田岬半島の田舎へ引っ越すことになり、
幼稚園に行けなくなった悔しさや(4歳)、
その道中で見た山々と海の風景も、鮮明に覚えています。
その記憶力はどんどん強くなり、
母を目の敵にする婆ちゃんとの会話や(5歳)、
小学校の担任と話した内容まで覚えているんです。(8歳)

その頃、デジャ・ビュ現象が頻発。
夢の中で見た風景や、人との会話を先取りしていました。
とりたてて意味のない些細な内容だったので、
いちいち人に話すこともなく、
皆がそんな感覚なんだろうくらいに思っていました。

後に30代の隣人から打ち明けられた話で、
子供の頃は、原っぱで寝転ぶたびに幽体離脱。
身体が雲の上まで上昇、気持ち良さにうっとりしていたそうで、
やはり私と同じように、みんなも、と思っていたそうです。

彼女は所帯を持った後も、疲労困憊が続くと離脱。
深夜に帰宅する夫を出迎えようと玄関に向かうのですが、
用を済ませて寝室に戻ると、そこに寝ている自分を
何度も見たそうです。

こんな人、けっこういるんですねぇ。

やはり『類は友』でしょうね。
私の人生、そんなタイプの人と接触することが多かったです。
ただ、彼らと明らかに違うのは、
自分の内に『賢者のような存在』を感じていたことでした。

その存在は、出現する瞬間が決まっていました。
何も考えずに、ボケーとしているときか、
相反する、修羅場のようなシーンで出現しました。
身近な人の逆上や、ののしり合う姿、
激情的なやり取りなどがあると、
瞬間、自分が、その存在として傍観するんです。
それも観察者の視点で、なんですが。

具体的には……。
母がブチ切れて怒鳴りまくっていると、
その存在が冷静沈着に呟きます。
『愚かなことだ。怒りは身を亡ぼす…』とかなんとか。
続いて、その存在の自我? が、主張し始めます。
『私の家族ではない。どうしてここに来たのだろう?』と。

そうは言っても小学生ですからねぇ、
とても自分だとは思えないのですが、同時に、
それは自分の一部だという認識はありました。
だから精神世界を知った後に、過去世を引きずった自我だろうと、
自らを納得させたわけです。(^_^ ;)


中学卒業後の進路について……。
1967年、昭和42年の話です。

その頃、中学生の60%は高校に進学しましたが、
私は名古屋の某会社に就職すると決めました。
夜間高校通学に理解のある、唯一の企業だったからです。

そう決心する前、校長と教頭が揃って我が家に来ました。
成績優秀な私をなんとか進学させようと、
母に土下座までして説得を試みたわけです。
ですが『女子に教育の必要ない』と、けんもほろろ。
彼らに申し訳なくて、身が縮む思いをしました。

父に発言権はありませんでした。
あったとしても、状況は変わらなかったと思います。

父の人生観は日頃から、どこか卓越していました。
山中で暮らしても、その気さえあれば勉強はできる、です。
実際、父は博学で、質問に答えられないことは皆無。
即答できなくても、山積みした古書で調べてでも、答えてくれる人でした。

この高校進学問題……。
校長と教頭の熱意に感謝こそしましたが、
私自身は痛くもかゆくもありませんでした。
確かに貧乏で、母に苦労を強いるのは抵抗がありましたし、
尊敬はしても母に意見もできない父も含め、
両親から離れられるだけで、清々していたんです。
(一人が好きで、小5から薪小屋で寝てた)


で……ここからは名古屋での話。

会社の寮から高校に通う道筋に教会があり、
屋根の十字架を見るたびに、なぜか涙しました。
『切なさに似た孤独感』が押し寄せてくるのです。(16歳)
その頃は過去世なんて知りませんので、
本で読んだ尼僧の物語や、聖なる者へ憧れだろうと、
なんども自分に言い聞かせました。渇望

寮生活の消灯はPM9時。
受験勉強(名古屋大学志望)など無理だったので、
高3で寮を出て同級生とアパートをシェアしました。
仕事と学業、休日のバイトと、超多忙な青春を満喫していて、
デジャ・ビュや離脱兆候も、すっかり影を潜めていました。

そんな青春真っただ中で、事件が起きました。
職場の先輩だった男に好かれ、無理心中劇が……。
結果、会社に居づらくなって退職。

休日を利用して学んでいた和文タイプを生かして、司法書士事務所に就職。
ですが、1年ほどで辞めざるを得なくなりました。
その頃の和文タイプって、印刷活版と同じで活字が反転状態。
慣れるまでは、かなり大変です。
それでなくても司法関係の書類づくりは神経が消耗するのですが、
通学時間が迫っても、それが未完成だと帰してもらえなかったのです。
(学生の身には本末転倒)

仕方なく喫茶などのバイトで生活費を確保したものの、
ルームシェアの友人を介して、
騒動のあった男の噂が耳に入ったりして、気が滅入りました。
アパートと高校、大学はともに生活圏内にあったので、
元同僚たちや、彼と遭遇する可能性もあるわけです。

で、終に……。
大学進学を断念して大阪に戻りました。
人生で最初の挫折でした。
詳細は、カテゴリー『エピソード』の中の『老いらくの恋』に。


その頃,大阪は第二の故郷になっていました。
兄が、年老いた親たちを呼び寄せて同居。
2人の姉も、近くで所帯を持っていたからです。


大阪では、通信教育で学んでいたレタリング&POPライターとして、
ショッピングセンターの運営会社(三菱商事)に就職。
出入りのコンサルタントに教わって販売士の資格も取得。
後にPOPライターとして独立するための、基礎訓練になりました。

同時に、高3から文通していたタイ人とのデートを重ね、
国際結婚の下見という名目で恋人の故郷にも行きましたが、エピソード/恋心
なんのことはない。結果的には勤務先の
テナントのひとりと結婚しました。(21歳)

息子にも恵まれましたが、夫婦間がしっくりいきません。
宗教にすがってでも、離婚は避けたいと切望していて、
独学ですが、聖書の教えに没頭していきました。(^_^ ;)

とはいえ、身体は多忙を極めていました。
デザイン&POP業で独立、繁盛していましたが、夫の自営業の都合で廃業。
土日祭日は自営業の助っ人。平日は飛び込みの営業という二足の草鞋状態。
3人の養育(2人は親戚の子)の必要から、馬車馬のような暮らしが続いていました。

この頃、疲労困憊しているのに神経は冴えわたっていました。
夫に対する怒りをエネルギーに変えて、動き回っていました。
『死んだら死んだでいい。交通事故だったら世間体も‥‥』
そんな思考に支配され、がんじがらめ状態が8年。少年A

そんなとき、不可解なバイク事故が起きました。
バイク事故

この出来事で、生きている世界観に揺さぶりがかかりました。(30歳)



この話は長いので、その② に続きます。

今日の記事について……。
突如、自伝を要約したのには理由があります。
アクセス解析を見ていると、
過去記事の一挙読みをしている人が、結構いるんです。
ある日ページに来る → おや? → どんなオバちゃんなのか?

ですが記事数は400以上。
自伝部分だけでもまとめておけば、
カテゴリー別の記事も、それを下地に違和感なく読めるかも……。
そんな趣旨なんです。(^_^ ;)


ふれあう下心

 29, 2017 00:05
可愛い猫187
      ……ってか、内緒……


過疎の村で鍼灸院を営んでいた頃の話で、
過去記事『ふれあい』から編集し直しました。
というのも、この話には“どっこい!”の『オチ』があり、
それがず~と気になっていたもので……


過去記事『ふれあい』より

人気者の婆ち人ゃんがいる。
友人はもちろん、嫁相手だろうが、孫相手だろうが、
そこに存在するだけで場が輝く、不思議な婆ちゃんがいる。

「亭主は早死にしちまうし、家は全焼しちまうし、
オラ、いいとこなしの人生だったがね、今じゃ息子も孫も良くしてくれる。
孫なんてさえ、今でも一緒に風呂へえるが
『どうだい、婆ちゃん! 毛も生えて立派なもんだろう』なあ~んて、
イチモツを自慢するんだ。まったく、笑っちまう」

「えっ!お孫さんて中学生の男子でしょう? 
すっごお、抵抗ないん?」

私は心底、感動していた。

「ねぇな、まったく。姉ちゃんもそうだ。
『婆ちゃん、今日は私が背中流してやるわ』とかなんとか言ってさぇ…。
風呂上りなんぞ爪にマニキュアまで塗ってくれて
『ほらテルヨちゃん、綺麗になったじゃないの!』だってさ。
オラ、姉ちゃんのオモチャみたいなもんだ」

「いい話やねぇ。今どき、汚いだの臭いだの言われて、
年寄りは除け者あつかい受けてんのに。
やっぱ、テルヨさんに不思議な魅力があるんやろねぇ」


彼女には忍耐と寛容、繊細さと潔さ、遊び心などがバランス良く備わっている。
もちろん、天性のものではない。
度重なる不幸に曝され、自尊心と闘って人々の情を受容し、
懸命に働き続けた末に獲得した魅力だ。
それらは地層のように重なっていることだろう。
掘り進むと涙の川や、怒りに燃え盛ったマグマの残骸をも含んで……。


「ああ、やっぱ、引っ張ってもらったら具合がいい。
これでまた頑張れるってもんだ……」 

仕上げのときの、彼女の決まり文句である。
初めて診たとき、彼女の頚椎は甚だしく側屈していた。
交通事故に遭って以来、ひどい肩こりや、めまい、偏頭痛などに襲われるらしい。

私はまず、鍼にパルス通電して痛む部分の筋肉を解す。
次に機能低下に至った臓器に対して、予防医学的な施術を施す。
最後はエネルギーを消耗する仕上げだ。

各関節の可動域を増やすため、手技で下肢や頚椎を伸ばす。
脳の腫瘍や血管障害、三半規管などの異常でなければ、
この方法で大抵のめまいや、偏頭痛などは消失する。

鍼灸師の私が軽いマッサージや、牽引を行うのには理由がある。
協会レベルの資格でも、オステオパシイや、中国整体の利点を生かしたいこと。
仕上げには患者にとっての心地よさを提供し、手でふれあうためだ。
そのとき、私は手を通してエネルギーを分け与える。
気巧師ではないので効果のほどはわからないが、
痛みが癒されますようにと、おまじないをかけていることは確かだ。


「そうそう、先生。これ……中元代わりだ」

服を着ると、彼女は施術費と別に5千円を握らせようとした。

「えっ?……そんなわけには」

「いいだ、いいだ。銭やなんか持って死ねるわけでもねぇし。気持だ。
旦那さんに送り迎えしてもらって、こんなに丁寧にやってもらって。
オラ、死ぬまで通いたいと思ってるでね。
物やなんか貰っても好き嫌いもあるし、裸でごめんよ」

「いやぁ、いいんですか? 
お小遣いもらったみたい……嬉しい!」

満面の笑みで、ちゃっかり、チップをいただくことにした。
そうすることが、彼女の喜びだと知っているのだ。

金遣いには人間性が滲む。
執着レベルが見え隠れしてしまうのだ。
ああ……なんて格好いいんだろう。
私も、かく在りたい。


と、まぁ……ここまでは美しい話なんです。
もちろん、このエッセイを書いた時点では、
婆ちゃんの話を、そのまま信じていたわけですが……。



どっこい……。


別の日、テルヨ婆さんの友人が施術に来ました。
祖母と孫のふれあいを話題にしたところ……。

『そりゃあ、そうさぇ!
あの人、若いときは苦労したがさぇ。
旦那が事故で死んじまって、労災や生命保険入って、
今は余裕綽々だで……。
したが(だけど)……。
あんなに頻繁に小遣いくれてやったら、
孫だって要領覚えて、ご機嫌とるさぇ。
一番上の孫の運転免許だって、
テルヨさんが出したってじゃね。
そのうち車だって買ってやるんじゃねぇか』

『(*′☉.̫☉)無免許運転で人身事故起こした孫?
大工見習って聞いてたけど……そうなんだぁ。』

(´-﹏-`;)……バツの悪さに、話題を変えたくなりました。

『オレんちの孫なんぞ、寄りつきもしねぇ。
野菜や漬物なんかは送ってやるがね。
正月に来ても、お歳玉2000円ずつが精一杯だ。
貧乏な爺婆には用もねぇだろうが、
まっ、金くれてやっても、ろくなことにはなんねぇし。』

『(^_^ ;)うんうん、そりゃあ、そうだよねぇ……』

もはや、合いの手を入れるので精いっぱい。
なんか妙に虚しさを覚えました。


それから10数年後……。
大阪に戻って家事援助のバイトとかやってると、
年寄りの愚痴を聞くことも増えました。

『お金は出すわ、息子に叱られるわ、さんざんやってん。
風ちゃん、ちょっと愚痴、聞いてな……中学生の孫がな。
み~んな持ってるのに私は買ってもらえない、とか言うもんで、
ゲーム機買ってやったら、えらい剣幕で息子に叱られて……』

『へぇ‥‥高いものなんです?』

『5万円……。
何が腹立つって、息子な!
それなら、私にお金返すんかと思えば、
返しもせんくせに未だに怒ってんねん。どう思う?』

『徒歩3分の所に住んでても、
日頃は顔見せることもない孫たちでしょう?
中学生だし、誕生日でもなんでもないし、
高額過ぎるかも……。』

遠慮がちに言いました。

『ほんま、アホやったわ。
けどな、仲間外れになるとかなんとか孫に泣きつかれて……』

『お孫さん、ここに来たんです?‥‥電話で、ですかぁ。
う~ん……お孫さん、ちゃっかりしてません?
年金暮らしの年寄りに、電話一本で5万円の出費させるって……。

それでなくても、孫のランドセル代10万円とか、
嫁が、そのデザイン気に入らないとかで険悪になったり、
社会人になっても、プレゼントひとつない、とか。
お金を巡っては、いろいろ聞きますよねぇ。

まぁ、今回は痛かったけど、いい経験じゃないですかぁ。

というのもね、私の息子の話ですが……。

その昔、商売してて付き合いも多かったし、
一人息子は周囲からちやほやされて、してもらってばかり。
ところが息子。
成人しても他者に何かをしてあげることがなくて……。
気がつかないというか、ボケーとしてて。

一度、叱ったこと、あるんです。
よそ様を訪ねるときは、手土産くらい持参せぇ、とか、
親の誕生日くらい覚えて、メールのひとつも送ったらどうや、とか‥‥。

それでも30歳くらいまでは毎年、誕生日プレゼントもしてました。
ですが、そんなこと、言葉にする自分にも腹が立って、
結婚を機に、息子へのプレゼントは一切、止めました。
幸いなことに、結婚相手は良く気のつく娘で、
息子に変わって『母の日』とかに気遣いしてくれますけど。(^_^ ;)

私たちの時代と違って、
今の子供たちは何不自由なく育ってますからねぇ。
不自由させなかった親が悪いといえば、その通りですし、
当人は幸せですが、ある意味、欠陥人間ですよね。
ありがたさを感じず、自尊心ばかりが強くて、打たれ弱い。
物のない時代に育った人々とは、『根っこ』が違いますから。

ただ、自分でも思いますが……。
してやれる喜び、ってあるじゃないですかぁ。
それが、母親の苦労を見てきた息子さんには
解らないかも、ですよね。
だから……。
孫の誕生日プレゼントをしたからって、
息子や嫁からも感謝されたいとか、
その先を期待するとロクなことがないです。

自分の喜びのために、したければする。
余裕がなければ無理はしないこと。
そんでいいんじゃないかなぁ‥‥』

『そやな!……ほんま、ええ勉強したわ』


はて、存在感を求めず、ただ見守る老人になれるでしょうか?(。・?_?・。)


ふれあいは、ときとして『下心』に満ちて、
真心からは、どんどん遠ざかる。
社会や経済、恋愛さえも『下心』に満ちて、
『生きかた上手』な人々を生産し続ける。
結果、おべっかや、へつらう行為さえも、
“忖度”などと釈明せざるを得なくなる不思議。  
        四緑木星 風の象 風子





ポチが、励みになります!…(*´~`*)。o○

エピソード/恋心

 29, 2017 15:15
タイ
     ビルマとの国境にて/20歳


♪恋というものは不思議~なも~の~なんだぁ~
逢っ ているときは~ なんともないが~
さよならすると~ 涙がこぼれちゃう♪

布施明のヒット曲『恋』……。
恋心を的確に表現していて、憎らしいほど。
懐かしくもあり、切ない記憶ですよねぇ。

But……\(?。?")。
今にして思えば、恋はやっぱ、病かも?と思います。
恋心というものは、『知らぬが仏』状態で、
互いが、勝手に思い描く理想象に恋しているのかも、と。(^_^ ;)

46年前、オバちゃんも人並みに恋をしたのですが、
『異文化の壁』を前にして、白昼夢から覚めました。
その、オバカなエピソードを公開しましょう! 

今日の話は長いです。(お忙しい方はスルーください)
著名でもない、ふつうのオバちゃんの恋物語なんて退屈ですよ。
ただ、これを読むことで皆さん自身の青春を思い出し、
人として成熟した今の自分を、褒めてあげられたら幸いです。



20歳の私は、かつてのシャム王国(タイ)に向かいました。
目的は、国際結婚の下見旅行でした。
過去記事『悩むな!考えろ!』に書いた経緯を経て、
21日間の長期休暇をもらって旅立ったのでした。

恋人の名前はタノン・ブンジョス。
軍人の父を持つ長男で、30歳のエンジニアでした。
出会いは、家族で行った大阪万博のタイパビリオン内。
近畿大学工学部に留学中の彼が、
自国のパビリオンで通訳のバイトをしていたことに始まります。

当時、私は名古屋在住の勤労学生で、2年間は文通だけの付き合い。
その後、実家のある大阪で就職してデートを重ね、
互いが結婚を意識するようになっていきました。

国籍を取得して日本で就職するか否か、
タノンはかなり悩みましたが、私は帰国を勧めました。
当時の日本では、まだまだ黒人やアジア系の人々に対する偏見が強く、
彼にとっての就職は、自国の方が有利だろうと思ったわけです。

もっとも、私は、すぐに結婚したいとは思っていませんでした。
POPライター業は楽しく、専門職としての未来に希望を持っていましたし、
数年先なら結婚してもいいけど……くらいの温度差はありました。

ただ、相手の立場(30歳、長男)や、心境は理解していました。
留学過程が終了しているのに、好きな人がいるとかで、
一向に帰国しようとしない長男坊に、両親がやきもきしていたのです。

ある日、タノンが真剣な眼差しで言いました。

『結婚の予行練習してみない?
まずはタイを知って欲しい。
できれば僕と一緒に行って欲しいけど、
現地を見て、風子がそこで暮すと決心できれば、
僕、数年くらいなら待てるから……』
自分の気持ちと両親の間で葛藤していたタノンは、
私の気持ちの本気度チェックしたかったのです。

『うん、判った……。帰国に合わせて一緒には無理。
お金も貯めないと行けないし、長期休暇も簡単ではないからね。
けど、必ず行く……約束するわ。』
この会話から1年後、上司の配慮で実現した旅行だったわけです。



タノンの実家は、
バンコクの北方400㎞ほどのペチャブリー市にありました。

100坪ほどの敷地に木造二階建ての家屋と、小さな菜園。
日本の田舎によくある平均的な一軒家でしたが、
軍から派遣された2名の番兵が駐屯するという、
小屋の粗末さが妙に可笑しかったことを覚えています。

実家に到着した夜、親戚や友人、知人が集まって、
盛大な歓迎会が始まりました。
好奇に満ちた大勢の目に晒され、
婆さま方には手相や足相まで鑑定され、
なんとか『合格』が言い渡されました。

すると翌日から義母は早速、私を市場に同伴させたり、
日本ではありえない米の炊きかたや、
男女別に位置が決まっている洗濯物の干し方などを説明。
いくらなんでも早すぎない?
下見だ、っちゅうに、……とか思いながらも、
好奇心が勝って義母の後をついて回りました。

冷蔵庫以外の家電はなく、米は薪で、洗濯は洗濯板で、
食器と洗濯物の洗剤は、同じものを使用するようでした。
タイは常夏の国……日に何度も水浴びをするということで、
風呂は、ドラム缶に張った水を浴び、同じ場所にあるトイレは、
そのドラム缶の水を汲んで、手動で流すという具合でした。

その生活スタイルはどうってこともなかったのですが、
最大の壁は、激辛で香辛料ムンムンのタイ料理でした。

このタイ料理……バンコク滞在の数日は何とか持ち応えていました。
望めばホテルで洋食を摂り、喫茶店で涼をとることも可能でしたから。
しかし、実家にきてからというもの、地方色の濃いタイ料理が続きました。
それらは観光客に配慮したバンコク市内のものとは違い、
耐えがたいほどのニンニクと香草、激辛の香辛料が混入していました。

口元に運ぶだけで、反射的に吐き気をもよおすのですが、
母親やタノンの胸中を思えば、食べないわけにはいきません。
吐き気を堪えて無理やり飲み込むうちに、胃の方がストライキ。
日増しに食欲をなくしてから七日目の朝、
ひどい目眩に襲われ倒れてしまったのです。

実は私、持病を持っていました。
刺激の強い食事を摂ると、まずは胃がやられ、
しだいに膀胱炎症状に見舞われます。
それが夏場なら最悪で、大量の発汗によって体液の塩分濃度が上がり、
尿に血が混じって微熱が出る……腎盂腎炎の再発です。
放置すると炎症が腎臓まで広がり、
最悪の場合は人工透析の必要に迫られることから、
医師からは安静と水分補給を促されていたのです。


義母が、煎じた薬草を持ってきて枕元に置きました。
藁にもすがる思いで一気に飲み干すと、不思議なことが起きました。
腹部全体がクワ~と熱くなり、すぐに深い眠りに堕ちたようです。
目覚めると、なんと爽やかなこと。
胃の不快感は消え、元気が戻っていました。
そのときの薬草効果は、魔法に思えたほどです。


その日以来、
タノンは私を連れて観光地巡りをするようになりました。
実家での緊張や食事から開放しようという配慮でしたが、
タイ料理そのものが恐怖になった私は、
現地では豚の餌らしいのですが、
路上販売のスイカばかりで、空腹を満たしていました。


そんなとき、たまたまタイの要人から、アメリカとタイ空軍による
アクロバッ飛行トショーに誘われ、貴賓席で観覧することに。

というのも、大阪万博の折に……。
タイのVIP一行が京都、奈良観光をしたいということで、
タノンが通訳、私が神社仏閣の説明に同伴した縁でした。
(タノンは、漢字の多い建造物の歴史や説明が読めない)

ベンツ二台、貸し切りで二日連続。
夜は北新地で豪遊……未体験、別次元の世界でした。
その時のメンバーってのが……。
妻同伴の大臣、都知事、警視総監、タイパビリオン館長と、
その妻(元ミスユニバース)という顔ぶれで、
風子がタイに来てるなら会いたい、みたいな話になったわけです。

ココで注訳
いきなりですが、タイ美人の基準に触れます。
とにかく、丸顔が好まれます。
目がぱっちり、口元が小さく、手足が小さい。
おこがましいですが、そのまんま、わたし。
壮年のVIP一行に、大層可愛がられた理由です。

そんないきさつで上流社会のお歴々と同席して、
身の置き所のない苦痛を味わったり、
リゾートビーチのコテージで、彼と2人だけの静かな夜を過ごしたり、
身分不相応でロマンチックな体験もさせてもらいました。


帰国が近づいたある日……。
タノンの弟と、その友人を同乗させてアユタヤ遺跡を巡り、
単身でビルマとの国境に駐屯する、タノンの叔父を訪ねました。
彼等は7年ぶりの再会ということで、話が弾みました。

ですが、言葉の壁というものも辛く歯がゆいものです。
タイ語の特訓を受けたわりには(3カ月ほどタノンから猛特訓された)
現地ではまったく役に立ちません。
バンコク市内なら英語も通じますが、田舎では身振り手振りばかり。
フラストレーションがたまります。
2時間ほどで耐えられなくなった私は、
外に出て手のひらサイズの猿と遊んで時間を潰しました。
人見知りしない小さな猿が、低木の間に沢山いたのです。


叔父と別れ、ビルマとの国境沿いに差しかかると、
ヤシの木の間から集落が見えました。
秘境探訪ドキュメントにでも出てくるような、
高床式、藁屋根、板張りの簡素な住居が見え隠れしていて、
俄然、好奇心が躍動。
彼等の暮らしぶりが見たいと、タノンにせがみました。

集落の手前で車を降りて歩き始めると、
広場にいた人々の目が、一斉に私たちに向けられました。
そりゃあ、そうです。
腰巻だけで半裸の男たちと、全裸の子供たち。
女性は胸下をボロ布で覆っただけの格好の中、
私は冒頭の写真のような格好でしたし、
タノンや高校生の弟、友人共に、ホワイトカラーでしたから。

石積みの釜戸や、洗濯場のある広場で、
縄を編んだり、矢じりを研いだりしていた男たちに近づき、
タノンが丁寧に挨拶をして回りました。
『ちょっと見学させてください』
『あんたたち、どこから来たの?』
そんな意味合いだったと思います。

私は、芋の皮をむく女性の傍らで独特な道具に見入ったり、
遊びまわる裸の子供たちを眺めたり、
高床式の住居の下で飼われている豚や、鶏に気をとられていました。
住居の床板は隙間だらけで、階下に残飯を落とすにはもってこい。
山岳民族の暮らしぶりに感心したりしていたわけです。

30分ほど経ったでしょうか。
タノンが血相を変えて近づいてきて、耳元で囁きました。

『車に乗って!急いで!』
驚いて振り向くと、男たちはもとより、
そこにいたはずの、女子供の姿もありません。


弟たちはすでに待っていたようで、
私が乗り込むと車が急発進しました。

『どうしたの?』
『ゲリラ!……車に積んでた父の勲章付きの帽子見た。
追いかけられるかも……』

猛スピードで集落から逃れる車の後方で、
けたたましい銃声がしました。(◎ー◎;)……((((;゚;Д;゚;))))カタカタ
『頭、下げて!』
伏せ気味に運転しながら、タノンが叫びました。
反射的に身をかがめ、耳を疑いました。
(゚◇゚;) 嘘!……この時代に銃で狙撃って……夢?

横を見ると、ハンドルを持つタノンの手が震え、
弟たちも身をかがめて固まっています。

えぇ~っ、ここで死ぬの?
死骸は野犬かなんかの餌になって?
母さん、ゴメン……(×_×;)
日本人女性、タイで行方不明とか、新聞に載る?
そんなはずは……これは夢なんじゃ?


30分ほど激走して、湖のほとりの広い道路に出たとき、
タノンが車を止めて言いました。

『危なかったねぇ……途中、男が僕の車、見に行った。
戻ったら他の男を誘って家の中に入って、一人ずついなくなった。
それで僕、思い出した。
後部座席の見えやすい所に、陸軍の帽子、置いてた。
たぶん、殺されるか、身代金要求されたかも……』

『(。・?_?・。)ムゥ…(o´_`o)ハァ・・・』

この危機一髪話……。
身内はもとより、親友にも話したことはありません。
『南方の土人と結婚するなら親子の縁を切る』
そう言い切った母にすれば、
『だから言わんこっちゃない!』ですから‥‥。


この事件の発端となった勲章付きの軍帽について、
補足です。

タイにきてからというもの、
軍人に対する優遇措置には驚かされたものです。

市内のレストランで駐車場が満車だったとき、
タノンは平然と駐禁ステッカーの横に車を停めました。
案の定、いかにも苦々しい顔をした警察官が近づきはしましたが、
後部座席に置いた父親の軍帽を見るなり、
敬礼して立ち去ってしまったのです。
それが高僧の袈裟だとしたら、
警察官は合掌して平伏すというから驚きです。

タイの軍人は特権階級に属しています。
父が陸軍大尉のタノンなどは申請だけで普通車免許がもらえるし、
医療費が全額免除されるということでした。

タイという国には、未だ歴然とした身分制度があります。
王様でさえも仏教徒の一人ということで、最高位は僧侶(たてまえ)。
その次が軍人で、人口の40%ほどしかいない
純粋なシャム人たちで構成されています。
残り60%は華僑(中国系の商売人たち)で、
経済は実質、華僑に支えられているのですが、
僧侶や軍人からは、卑しい身分という偏見がありました。

★21日間のタイ旅行全容について興味があれば、
 過去記事の『離脱』『賢者のささやき』『悩むな!考えろ!』などを参照ください。
  悩むな!考えろ! 
  離脱
  賢者のささやき


帰国の前夜、タノンから聞かれました。

『どお?‥‥タイで暮らせそう?』
ドキドキしました。

『う~ん……努力はするつもり。
そうそう、お母さんは、私のことどう思ってる?』
思わず話の焦点をずらしてしまいました。

『お母さんね、風子がこのままタイに残るなら結婚できるけど、
帰ったら、たぶん、無理だろう、って言ってる。』
内心、ドキッとしました。

『えぇ~っ!……いくらなんでも、このままってわけにはいかないよ。
上司を裏切るわけにいかないし、家族にも、それではあんまりだわぁ』
そういうと、タノンは寂しそうに微笑みました。

別れの朝、タノンはバンコクの親戚や友人宅に寄り道して世間話。
途中の渋滞などを予想すると、間に合わなくなりそうで、
なんども急かして険悪なムードに……。

案の定、空港に着くと、搭乗手続きは終了し、
トランシーバーを持った係り員たちが走り回っていました。
!(・。・) 私を捜していたのです。
冷汗を拭いながら、タノンが係員に言い訳し、
それが終わらないうちに、
係員が私の手をとって走り出しました。

『行って!…早く行って!』
振り返る私に、タノンの声だけが聞こえました。
係員に急き立てられて、
関係者以外立ち入り禁止という通路の階段を降りていたのです。

外に出ると、ジープと軍人が待機していて、
すでに滑走体制に入っていた飛行機に運ばれました。


『たまにいるのよね、こんな人……』
そんな目をしたスチュワーデスが、笑顔で迎えてくれました。
もちろん、乗客の何人かに睨まれました。
私のために、飛行機は離陸を5分も待っていたのですから。


『もう、あんなに急かしたのに。言わんこっちゃない……』
そう思いながら窓の外に目をやると、
送迎デッキで手を振るタノンの姿が見えました。
愛しさが押し寄せ、嗚咽しました。
このドタバタ劇は、私を日本に返したくないタノンが、
意図的に仕組んだと、やっと理解したのです。

帰国の日が近づくにつれ、どんなに葛藤したことか。
最後の夜は二人だけで過ごしたかったのに、
親戚の家に泊まって、妙にテンション高く雑談に耽ったタノン。
その真意を量りかねていた自分の愚かさに腹を立て、
同時に、真意には沿えない悲しさに苦悶しました。


帰国して数か月というもの、
冒頭、布施明の歌詞そのものの心境でした。
愛しさに胸かきむしられる反面、
冷静な自分に諭されるわけです。

無理、ムリ、ムリ……。
何か月も、その理由を自らに言い聞かせました。
・激辛で臭いタイ料理
・歴然とした身分制度への抵抗(物乞いする子供たちの多さ)
・2度も体験した“幽体離脱”よる世界観の好奇と混乱。


こうして、わたしの恋は終結。

今も思うのは、タイに移住していたら、
精神世界の探求や、神秘体験はなかったはず。
ましてブログを書くなんて、まず、なかっただろうと……。

ですが、一方では、
タイ人に嫁いだ自分の人生を想像します。
【人生はすでに完成しているDVDのようなもの】
意識の海にはパラレルワードがあって、
幾つもの人生脚本が、同時進行で展開していると
知っているからです。



(*′☉.̫☉)えっ? タノンとも離婚しただろう! って?

(´・_・`)…… ワ~オ!……あるいはそうかも、です。
この世には、男女の情愛より楽しいことが多すぎて……。(^_^ ;)

いずれにしても、人生は無常です。
変わらないものは、なにひとつ、ないんですよね。
歳を重ね、ブラックジョークのひとつにでも共感できれば、
あなたも『人生の哲人&鉄人』って、ことじゃないでしょうか、ネ!(*^▽^*)


結婚するとき、
私は女房を食べてしまいたいほど可愛いと思った。
今考えると、あのとき食べておけばよかった。
  アーサー・ゴッドフリー(米国のブロードキャスター)




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ワイルドライフ ②

 10, 2017 00:05
わが家
        小川村のわが家


前々回に続く未公開記事。
ワイルドライフ②……『熊棚』です。




生活センターの掃除当番を終えた頃、
すぐ近くで、八重子婆ちゃんの興奮した声が聞こえた。

「栗拾おうと思って朝早く来たらさぇ。
あそこでクマが座って、栗、食ってるじゃねぇ。
オラ、たまげたのなんのってさぇ……」 

「クマ棚?……なんのこと?」
連れ合いに聞いた。
「さぁ?……見に行ってみるか!」
興味深々である。

生活センターから数mほどの栗の木に近づくと、
一目瞭然、クマ棚なるものに合点がいった。

栗の木のほぼ中央、枝ぶりの頑丈そうな木の股に、
マウンテンゴリラの寝床を思わせる枝葉の塊があったのだ。
まさにクマが造った棚としかいいようのない代物である。

その棚にどっかりと腰を据え、
枝ごと折った栗を片っ端から頬張るクマの姿が目に浮かんだ。

「えれぇこんだなぇ! こんな近場にできるなんぞ、初めてのことでねぇか?」 
「ああ、役場には連絡した。この調子じゃぁ明日も来るで出ちゃなんねえぞ。
婆ちゃん、聞いてるか」 
組長の松下が言った。
 


「すっごお! なんかワクワクすんね」 
自宅に戻った後も、私は、なぜかはしゃいでいた。
ジェラシックパークには遠いが、似通った気分に浸っていたわけだ。 

「あのな、あそこに来たってことは、うちにも来るんやで。
小池なんか栗だらけなんやから、気つけななぁ」 
車は四駆のRV車に固執し、悪路となるとファイトを燃やす性質の連れ合いが、
本音をはぐらかすように言った。  

だが、その予想が的中。
一か月も経たないうちに、わが小池地区はクマ銀座と化した。
しかも、ウォーキングの帰り道で、近所の婆ちゃんに聞かれるではないか。

「ねぇ、おめぇんち、熊、行かなかったか?」
「ハハハ、冗談!…こんな昼間に熊なんか…」
「冗談じゃねぇ。ほれ見てみい。クマの足跡だぁ!
さっき見たときはなかったが、そこの畑から帰ったらこうだ。
おめぇんちに向かってるぞい…」

確かに。
うっすらと積もった雪の上に、わらじの足跡のようなものが続いていた。
「(((ʘ ʘ;)))えぇ~っ!……どうしよう((((;゚;Д;゚;))))カタカタ」
注意深く歩き出し、遠目で、わが家の周囲をくまなく眺めた。

ワ~オ! クマ?……いや、連れ合いだ。
黒い防寒着を着こみ、背中を丸めてクルミを選別していた。


“怖いもの見たさ”とは、よく言ったものだ。
棚におすわりして栗を食べるクマの姿が見たくて、
私たちは、夜の僻地ドライブまで敢行した。
都会人ゆえの愚行だと知りながら……。


過疎の村で13年暮らしましたが、
幸いにも熊に遭遇したことは、一度もありませんでした。
ですがシーズンには熊による人身事故も多く、
有線放送による『熊出没注意』の頻度が増します。
○○地区で出没、○○方面に向かった、みたいな情報を参考に、
村人たちは警戒態勢に入るわけです。

熊は、蜂蜜やリンゴが大好物。
農家の多くは兼業で養蜂を行っていることから、
蜂蜜や、収穫したリンゴを格納している蔵は良く荒らされます。
蔵の分厚い扉を破壊する熊の爪……襲われたらひとたまりもありません。
山菜採りや、農作業中に襲われたりするので、
親はマイカーで、登校する子供たちをバス停まで送迎。
私たちも、長野市内まで出かけて帰りが夜になった場合、
駐車しても車から降りずに、屋敷内をライトで照らしてチェックしたものです。

徘徊する熊を見たいような、怖いような……。← バカです(^_^ ;)
で…、自宅に入り胸を撫で下ろしたときの安堵感たるや独特です。
五感の、極度の緊張の後にくる全身の筋肉弛緩……。
改めて、生きている実感と幸せに浸るのでした。
Why?‥‥(。・?_?・。)


 
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ワイルドライフ ①

 31, 2017 00:05
大阪に戻って、4年目の夏が来ようとしています。

早朝ウォーキングの途中、草むらに座り込んで休憩していると、
な、なんと、オコジョが通りかかりました。(ムチャクチャ可愛い!)
驚いて……(((ʘ ʘ;)))互いの目が点……。
小川村で見かけた真っ白ではなく、茶色の夏毛でしたが、
しばらく見つめ合った後、姿を消しました。
(!(・。・)b …こんなところでも、いるんだぁ。)

わが家は大阪府の端っこ、河内長野市の山間部にありますから、
ウォーキングではさまざまな生き物を見かけます。
川沿いではカワセミや、カモ、アオサギや、シロサギを見かけますし、
林道だと美しい雄キジに遭遇したり……。
ですが、オコジョは初めてで、意識が懐かしい小川村に飛びました。


ちょっと季節は真逆の感ですが……。
以降、“小川村版ワイルドライフ”をお楽しみください。( ˘ ³˘)

オコジョ冬毛
 冬毛のオコジョ

キツネ
 餌をさがしてトボトボと
 

白銀の世界が訪れると、白昼でも徘徊する獣が増える。

なかでも頭をたれてトボトボと徘徊するキツネなどは、
なんとなく憐れに映る。
すると突如、寓話などでキツネが悪賢く語られるのは
なぜだろう、と思う。

キツネは、大きな目と、鼻すじの通った小さな顔をしている。
人にたとえれば細面の美女のようだ。
といっても、キツネの利口さゆえだろうか…。
同時に狡知(悪賢い)さも感じるから不思議だ。

キツネは、猟犬に足跡をつけられたりすると、
水に入ったリ、木に登るなどをして姿をくらませるらしい。
また、カモの群れなどに近づくときには、
頭の上に雑草を乗せ、体を水中に沈めたまま近づくらしい。

それだけではない。
キツネは、なかなかの役者だ。
たとえば草を食べているウサギを発見したら、
逃げられない程度に近づき、苦しそうに転げまわる。
そうやってウサギの気を引き、
距離を詰めて一挙に捕えるそうだ。

そんな悪知恵が働くという伝承から、
キツネは『騙す』というイメージが定着したのかもしれない。

もっとも、キツネは死肉も好んで食べる習性があるらしい。
仲間の死肉を食い、ときには人の墓を荒らしたりする。

さらに、エキノコックス(サナダ虫)病も恐い。
キツネや犬の糞に汚染された山菜や、
沢水を口にすると感染する病気で、
幼虫が肝臓に到達すると、致死的な肝機能障害をもたらす。

そんなことから「ムツゴロウ動物王国」の移転先である
「あきる野市」の人々が、
「エキノコックス」の感染を心配して「反対運動」をしたようだ。

以前は北海道特有の風土感染病だったが、
キツネやネズミ、犬を通して、 近年は本州中部でも
「エキノコックス症」が確認されているらしい。

見かけによらず獰猛なハクビシン同様、
キツネも遠目で観察するのがいい。

わが家で群れる野良猫たちの動作が止まり、
一極集中して見つめる先には、 必ずといっていいほど、
レギュラーメンバーとまでは言えない獣たちがいる。
このワイルド感がたまらない。



雪の斜面で、黄金色の毛に包まれたテンに見とれ、
夏の盛り、魂を揺さぶるようなヒグラシの羽音に酔い、
『ケン、ケ~ン』と、静寂を破る甲高いキジのひと鳴きに心躍らせました。
この、生き物たちとの共存こそが田舎暮らしの醍醐味です。
人間と交わるより、はるかに多幸感をもたらしてくれるんですよねぇ。…(*´~`*)。o○

人間は、感情が複雑で心が疲れます。
過去記事にも書いたように『郷に入れば』なおさらです。
エピソード『郷に入れば』
だからって、野生動物たちと共に暮らせるはずもありません。
それでも彼らの生き方は参考になる気がするのです。
見ざる、聞かざる、言わず、の三拍子ではありません。
家族や敵を見分け、気配に聞き耳を立ててはいても、
“よけいなことは言わざる”に徹しているように思えるから……。(^_^ ;)



ポチが、励みになります!…(*´~`*)。o○

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少年A

 25, 2017 00:05
道


岡山県の貧しい小作農家に生まれた少年Aは、
男兄弟3人の末っ子で、小学1年で母を亡くしました。(心臓弁膜症)
間もなく父が、Aと同い年の女子を連れた女性と再婚。
父からは、Aの成績が連れ子に劣っていると詰られ、
継母からは、ことごとく冷たい仕打ちを受けました。
見かねた祖母(父の母)と、継母の仲は険悪になり、
祖母はとうとう、首を吊って自殺してしまいます。
(少年Aの実母とは、折り合いが良かった)

少年Aをかばってくれた祖母が自殺してからというもの、
彼の心は荒む一方で、家出を繰り返すようになりました。

警察に保護され家に戻されるたびに、父はAを木に括りつけて折檻。
見かねた近所の人が意見しても、決して耳を貸さなかったそうです。
少年Aが、小学生で胃潰瘍を患った背景です。

軍人上がりの父は、怒りっぽく厳しいだけの性分だと、
家族の誰もが思っていました。
しかし、それが病気のせいだと判ったのは、
悲しいことに兄弟たちが成人した後のことでした。

昭和20年(1945年)8月6日、
広島に原爆が投下され終戦を迎えました。
70年間、人は住めないと物理学の権威が言いましたが、
町の復興が急ピッチで進み、Aの父も広島に仕事を求めました。
残留放射能の恐さも知らずに、です。
街は1年半で蘇りましたが、憂さ晴らしに遊んだのでしょう。
父は放射能に晒されただけでなく、梅毒にも感染していたのです。


終戦から3年後の昭和24年、
父が村に戻った翌年にAが生まれました。
物心つく頃には、父の病気が徐々に進行。
母親が逝った原因も、あるいは、
梅毒由来の弁膜症だった可能性もあるわけです。

原爆症と梅毒のダブル症状は、発熱や、疲労感、食欲不振、
怒りっぽくなる、不安を訴えるなど、感情の障害などです。
ですが父に、自らの体調を気にする余裕はありませんでした。
入退院を繰り返していた妻が逝き、子供を養育する必要から再婚。
子供は4人になったわけで、体調が悪くても病院には行けず
馬車馬のように働くしかなかったのでした。


高校を卒業すると、Aは大阪で就職。
運送業や、飲食業を経て、ショッピングセンター(S・C)内の
コーヒーショップを経営することなりました。

Aはよく、S・Cの企画室に通いました。
テナントならPOP広告は無償だったし、
店内装飾のアイデアなどもアドバイスしてもらえたからです。
固定と歩合の二重賃料を徴収するデベロッパーが、
販売促進に協力していたのは幸いでした。


企画室のPOPライター F子の主な仕事は、
イベントの予告ポスター書きや、共有スペースの装飾、
マーケティング関連のデータ収集などでしたが、
特にテナントからの依頼には誠心誠意、対応しました。
運営管理会社にとって核テナントのジャスコをはじめ、
60の専門店はS・C繁栄の拠り所だったからです。

吹けば飛ぶような個人経営のコーヒーショップとはいえ、
F子はAにも丁寧に対応しました。
メニュー用POPをはじめ、挽き売りコーヒーの銘柄別説明ボード、
コーヒー専門店らしい装飾のイメージを定め、
提供できる資材と、個人負担になるグッズをアドバイスしました。


平筆で一筆書きするPOP技術が珍しいのか、
仕上がり具合が気になるのか、AはよくF子の仕事ぶりを見に来ました。
しかも時折、身の上話をするのです。

カウンターだけの小さなコーヒー専門店でしたが、
その権利を買うのに預金では足らず、家具や家電まで売却。
売り上げが軌道に乗るまでは、夜な夜な屋台を引いてでも踏ん張りたい。
並々ならぬ決意と将来の夢を語るAの話に耳を傾けているうち、
F子の心に『同情心』が芽生えました。
チェーン展開している有名専門店の多いS・Cです。
資金力はもとより、人手、戦略共に、孤軍奮闘が目に見えるようで…。


( ˘ ³˘)……ここでネタばらし。

少年Aとは、離婚したオバちゃんの元夫。
POPライター F子とは、20歳の、わ・た・し、なので~す。(^_^ ;)

何を今さら…って思うでしょう?
人生の転機となった『道』の選択について、
オバちゃんの失敗談を、正直に告白しておこうという趣旨なんです。(*´ェ`*)


当時、私は国際結婚のための下見から帰国したばかり。離脱
恋愛感情とは、結婚とは、幸せな人生とは何か……。
深く考える日々を過ごしていました。

で、ある日、上司に聞きました。
国際結婚に悩む私を叱り、20日間の休みをくれた上司です。悩むな!考えろ!

『あのぉ……ズバリ、結婚とはなんですか?』
46歳、二児の父親、有能な経営コンサルタントで、
酸いも甘いも噛みしめたであろう、人生の先輩に答えを求めたのです。

『ふ~む……。結婚とは、40%の愛情と、60%の協力と忍耐』

人も羨む、野性的な美女を娶った上司が、自信たっぷりに答えました。

『(*′☉.̫☉)……ですか! ありがとうございました』

このとき、私の中で迷いが吹っ切れました。


学歴、仕事、家柄ともに、タイ人の恋人はパーフェクト。
発展途上国のタイではエリートの彼の場合、
結婚相手は引く手あまたです。
言葉をマスターしたとしても、しきたりや文化、親戚づきあいなど、
タイ女性の域には年季がかかります。
私が傍にいて、相手の役に立つことなんて、なさそうです。
強いて言えば、ちょっと可愛い日本女性って、
タイ人にとってはステータス……ぐらい。
愛情が褪めたら、それこそ四面楚歌状態の環境です。

もっとも、タイ人の彼は誠実に応えました。
『風子から、私でないと絶対にダメか、って聞かれると、返答に困るよ。
確かに、結婚相手に不自由することはないだろうけど、
理屈じゃないよ。愛しているから結婚したい。
う~ん、意地悪な質問だね』 と……。

彼の、私に対する情熱を試そうと発した言葉でしたが、
想像通り、寛容で冷静な反応でした。
それを聞き、なぜか急に不安になりました。
男女の情愛だけに依存して結婚することが、です。

というのも、高校生くらいまでに、
文学全集は全て読み終えていました。(日本、世界ともに)
そこに描かれている男女の情愛は、たいてい数年で色褪せて破局、
互いが傷つけ合い、新たな恋と別れを繰り返してばかり……。
“愛してる”というセリフの短命さを想像すると、
どうにも決心ができなかったわけです。

一方のA……。
学歴もなければ、知識も(勉強嫌い)金も、何もない人でした。
あるのはガッツ、強烈なハングリー精神だけでした。
ただ、ハングリーを生んだ背景には心底、同情していたことは確かです。
Aが背負った人間不信、父への憎しみを払拭してあげたい。
金に対する猛烈な執着も、そこそこ満たされれば癒えるかも。
判官贔屓ともいえる、そんな気持ちがありました。

この心境……。
『可哀そうだ、は、惚れたが……』と言われれば、具の根も出ません。
愁いを帯びた細面の二枚目だったんです……とほほ(^_^ ;)

それはさておき……( ˘ ³˘)
私にとって幸せとはなにか……懸命に考えました。

たどり着いた答えは、自分の『存在感』でした。
ゼロから何かにチャレンジして達成するのが人生だとすれば、
苦労はしても、いつの日か感謝さえ示してもらえたら。
『お前がいてくれたからこそ……』と言ってもらえたら、
それこそが『存在感』であり、充足できるのじゃないだろうか?

それが、Aを結婚相手に選んだ理由でした。



ところが……ドッコイ!
数年で、自らの考えが軽薄で不純だと気づきました。

まず、Aの欲求は天井知らずでした。

夫婦で努力した結果、店は三店舗に増えましたが、
年月の経過とともに売上が低迷。
そうなるとA特有の超ネガティブ思考が始まり、
苦虫をすりつぶしたような表情、焦燥感まる出しの愚痴に、
家族や周囲が巻き込まれていきました。
チェーン展開が夢だったのに、こんなことでは、とか…。
だだ食うてチョンの生活なら死んだ方がましや!とか…。
聞くに耐えられない、駄々っ子のような観念をまき散らすのです。

その焦燥感……私に対するジェラシーも含まれていました。
POPライターとして独立し、高収入を得ていた私と比較して、
男のプライドが許せないみたいな、焦りです。

とどのつまり、イライラが募って吐血……。
胃潰瘍で入退院を繰り返し、最終的に胃を切除することに…。
(当時は、胃潰瘍を放置すると癌に、が主流)
仕方なく、私がPOPライター業をたたんで店の主力になりました。

といっても、子育てとの両立ですから限界があります。
POP業なら自宅で子供を見ながらとか、寝かしつけて、とか可能ですが、
二店舗はS・C内、一店舗は水商売でしたから。

退院後、Aは二店舗を売却。
コーヒーショップだけを残しました。

コーヒーショップだけでも、一般家庭よりはましな収入でしたが、
Aの悲観と焦燥感は留まるところを知りません。
突如、近視回復センターを経営すると言い出し、結果的には私に丸投げ。
投資分の回収もできないまま撤収したかと思えば、
出稼ぎに行くから、店に出てくれ、など々、思いつきでジタバタするばかり。

事情があって親戚の子供2人を養育するようになると、
さすがに生活は厳しい状態になりました。それぞれの信念
POPライターに戻ろうにも、取引業者との基盤は崩壊していたため、
結局は私が、飛び込みの営業に出ることに。(ブックローン、学研の英才教育)
土日は店の助っ人ができるし、幼稚園のお迎え時間までに帰れば、
フルコミッションだけに活動は自由だったからです。

やがて……Aの本性はむき出しになります。

POP業の高収入も、でしたが、営業職でも好成績を収める私に、
ジェラシーを顕わに、ひがんで捨てセリフを吐くのです。
坊主(売上0)の日は、亭主の威厳を保とうと、偉そうに説教。
収入を言うと、『どうせ俺なんか、なんの能力もないしな!』ってなパターンです。

(((ʘ ʘ;)))……オイオイ、どうしろって言うの? 
あんたの欲求に協力してんのに、嫁の能力にジェラシーって?
あんたの好みの事業で成功しないと、気が済まないってわけ?
私は、あんたの身体の部分じゃない。
あんたのためだけに生きているわけでもないんよ。
自らの不甲斐なさの矛先を、妻や息子に向けるな!
それでも〇玉、持ってんのか?

(´-﹏-`;)…さすがに、感情の制御に限界が来ていました。
しかも、13年連れ添って確信に至っていました。
物質欲&自己顕示欲ともにMAX、ひがみ根性MAX、
感謝の気持ち皆無……それがAの本質だと……。

(×_×;) だめだ、こりゃあ!
尽くす価値無し。
幼年期の逆境、トラウマ払拭なんて無理。
私だって相当な貧困家庭で育ったけど、
情も深いし、努力も厭わない。
Aの場合、魂の問題かも?

ってなことで、ブチ切れ、
あげまん女房を13年で廃業したというわけです。(^_^ ;)

もちろん、反省はしましたよ。猛烈に……。

Aを選んだ理由は『存在感』を得ることでした。
『お前がいてくれたからこそ……』と言ってもらえたら、
それが全てだと、確かに思っていました。

ですが、それ、自己顕示欲なんですよねぇ。(´-﹏-`;)

タイ人の恋人のために役に立てなくても、
Aなら、自分の能力が際立つだろう、みたいな……。
解ります?
超絶美人の中では目立たない10人並みの女性が、
不美人ばかりの中では『美人』に思われる得、みたいな……。

私も若い頃は、かなりハングリーな人間でした。
しかも、自己顕示欲も強かった。
だから……Aと、引き合ったんですねぇ。(^_^ ;)

それを認め、猛省したとき、離婚の決断ができました。
良妻賢母ぶって、Aの犠牲になる人生なんて意味がない。
このまま我慢を続けたら、それこそボヤキ人生になってしまう。
この先は自分のために生きよう。
素直に、真剣に、そう思いました。(*^▽^*)


もっとも離婚はしても、Aの、私への依存はありましたよ。
(息子を人質にとられていたようなものだった)

またしても入院 → 奈良に通って息子の弁当づくり。
7000万の保証人依頼 → (●`∧´)即断
破産して金欠  → 300万くれてやる。

このとき、Aがなんて言ったと思います?
『オレ、心底、思うわ……。
お前が男やったら、生涯の親友になったやろうって…』
思わず心で‥‥。
『アホかいな!…こっちにも選ぶ権利あるわ!』


20年ぶりに、息子の結婚式でAと再会しました。(息子は36歳で結婚)
熱心に話しかけてきましたが、親族の手前、松竹喜劇のノリで、きっちり返しました。

『あんたね!、私たち別れて20年よ。
いつまでも“おまえ”呼ばわりされる覚え、あらへんでぇ!
ほんま、ええ加減にして欲しいわ』


すると、新郎新婦はもとより、親族全員が大爆笑!……(Aは苦笑い)
大阪弁って、こんなとき絶大な緩衝材になるんですよねぇ。((´∀`*))ヶラヶラ 

息子が結婚して、心底、安堵しました。
Aとの『ミクロの絆』を、断ち切ることができたのですから……。


えぇ、えぇ、解ってますよ。
Aは、私のために、憎たらしい夫を演じた魂だと。
商売の段取り、交渉、スピーディな動き、低身低頭、おべんちゃら、駆け引き……。
ぜ~んぶ、Aから学んだ処世術ですし、鍛えられたことは確かです。( ˘ ³˘)



『お父さんとこ、行って来たよ。元気そうやったわ。
プロ顔負けのお節作って待っててくれてなぁ……』

正月が過ぎたら、息子夫婦から電話があります。
破産した元夫は、大分県の山村で田舎暮らし、してるんです。
村の名産プロジェクトの一環で、
細々と山椒の栽培をしているようです。(^_^ ;)

『そうかぁ、良かったなぁ。孫の顔見てメロメロやろ?
まっ、お父さんには、あんたたち夫婦だけが身内やから、
父の日とかにも、ちょっとした気持ち、してやってな!』

こんな言葉をかけるのも、Aが、本来は完全な光の魂だと
知っているからに他ありません。

が、しかぁ~し、アストラル界に戻ったら、
一言、文句は言いますよ!
『あんたねぇ、金儲けもいいけど、金に囚われたら終いやで!
二度目の嫁さん、二年で出て行ったやんか。
兄さんたちとも、結局は縁、切ってしまったやんかぁ。
なにが足らんかったと思う? 感謝や、感謝~!……』

(*′☉.̫☉) えっ?
高次の世界に、そんな言語ないって? (。・?_?・。)ムゥ…。
さすが、オバちゃんブログ読んでくださっている方は、進化が速い!


自らのエゴを、同情にすり替えて結婚した、
オバちゃんの『汚点』エピソードでした。
こんな失敗談でも、発信する自分、好きですよ。
人は、失敗から多くのことを学ぶのですから‥‥。




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癒したぁ、なんだや

 11, 2017 00:10
わが家の春ブク用jpg
       小川村のわが家


高齢化、過疎化の進んだ村で、
田舎暮らしをしていたときのエピソードです。



天文台や宿泊施設、スポーツセンターなど、
村には、かつての村興し事業で建設された数々の箱物がありました。
その赤字運営で莫大な借金を背負ってしまった村が、
癒しの里づくり」という地域活性化のための新たな構想を打ち立てました。

村人から募集されたアイディアは次のようなものでした。
●北アルプスの眺望を目玉としたロマントピア街道構想。
●景観整備と花の名所構想。
●ホタルの里づくり

ところがいざ実行となると、原材料費を除く労力の一切が、
村人の永続的な勤労奉仕に依存されようとしていました。
なんのことはない。
予算の乏しい村政にすれば、苦肉の策だったのでしょう。
住民の声を反映する企画だと強調すれば、
労働力は提供してもらえると、たかをくくっていたのかもしれません。


「癒したぁ、なんだや?」 

懇談会の最中、一人の爺さまが勇気をふり絞るように質問しました。
(´ー`*)ウンウン…もっともな質問だと、誰もが感じたようで、
答えを待つ人々の視線が、司会者に注がれました。

「えぇ~、安心するというか、満足するというか……」

役場職員が慎重に言葉を選びながら答えました。

「誰のためにするだぁ。観光客のためだか?」 

すかさず、爺さまが聞き返しました。

「いや、観光客のためだけじゃなく、私たちも癒されるため……」

一瞬、座がしらけ、村人たちの様々な反応が飛び交いました。


懇談会は混迷を極めました。

「おらぁ足も腰も痛てぇ。
それでも畑やらねぇと飯の食い上げだ。
まずは、おらぁを癒してもらいてぇ」

爺さまの本音に、大爆笑が沸き起こりました。

ボランティア精神といえば聞こえはいいですよね。
ですが、出来栄えを問われることのない作業には、
美的センスや、一貫した継続性は望めません。
陰口を恐れ、高齢者のほとんどが足腰の痛みを堪えて、
地区の草刈や清掃に参加しているのが現実なんです。
居住域の環境整備。それも何年も継続する勤労奉仕となると、
中途半端な挫折や、責任転嫁の風評が立つことは目に見えていました。

「全面的な勤労奉仕じゃなくて、
人材センターなどで支払われる時間給の5割や3割の報酬。
または村内店舗の割引買い物券などを発行して、
楽しみという付加価値をつけたらどうでしょう?」 

私が提案してみました。
聴衆は頷き、役場職員はポーカーフェイスを装いました。

結論として、実行されたのは『花の名所』づくりのみ。
もちろん名所というレベルではなく、畳一畳ほどの花壇で、
半年もすると雑草に覆われて見る影もなくなりました。

神戸や、東北大震災以来、流行語のようになった『癒し』という言葉を、
これほど不適格に、無様にスローガン化した役場職員の意識……。
現金収入のない村人の暮らしぶりをイメージすることなく、
労働だけを強いる、職員の意識こそが問題だったわけです。


かつて長野県知事だった田中氏は、 → 異色の知事
経費のかかる知事公社を処分すると決めました。
それを小川村がもらい受け、長野市内から村に移設しました。
その昔、長野県知事の1人が村出身者だったという理由だけで、です。
それまでに国の補助金で多くの箱モノを造り、
その全てが経費倒れしている矢先の、知事公舎移設でした。
移設費用は元より、その維持管理費に莫大な金をかけて借金を増やし、
地域活性化の労力は、100%ボランティアで、って?……(。・?_?・。)ムゥ

このときの、オバちゃんの心境…。
この村の役場職員って、なんでこうもボンクラ揃いなんや!
(○`ε´○)! 脳も心も錆びついてんのんか!
泰阜村にでも行って、学んで来んかい!
っと、まぁ、松竹喜劇風に憤っていたのでした。

★泰阜村は、同じ長野県下の過疎の村。
 早くから地域包括医療を実施。
 山村・都市交流プロジェクトを立ち上げ移住者を手厚く保護。
 その経営戦略は近隣の手本になっていました。


その昔、マズローという学者が、
人間の欲求5段階説を発表しました。
生存できるか否かに始まり、衣食住が満たされると、
社会的な地位や名誉に至り、後に慈善を行いたくなる、というものです。

確かに世界情勢の多くは、
『マズローの欲求5段階説』を証明しています。

例えばIS国。
いまでこそ世界中の若者が参加していますが、
初期の戦闘員の多くは、金銭的な待遇の良さが理由だったようです。
イスラム諸国では失業率も高く、
若者たちの雇用が確保されていません。
高校や大学卒の優秀な若者が就職できないと、
社会や政府への反感や怒りに変わります。
で……”ジハード(聖戦)”という都合の良い理由を見出し、
大義と共に、好待遇の義勇兵(聖職者が推奨)という仕事に、
のめり込んでいくのですねぇ。
衣食住が足りていれば、過激な輩は少数派だったかも……。

ふと思います。
日本は、平和です。
ワンちゃん猫ちゃん飼って、動画見て、
『癒されるぅ…(*´~`*)。o○ 』ってな暮らしですよね。
飢えるどころか、ダイエット意識満々ですよねぇ。
物心ともに老後に不安があったとしても、さほど深刻ではありません。
その証拠に、政界やスターのスキャンダルとか見聞きしたら、
ついネット検索して結末を見るでしよう?

誰のこと(・_・?)……って?
決まってるでしょう。 わ・た・し・です。(。・?_?・。)ムゥ…

ですが、その反動として必ず……。
『まずは、おらぁを癒してもらいてぇ』と言った爺さまの顔を、
イスラム国の聖戦に加わる若者たちを、
落ち着く先の見えないシリア難民を、
化学兵器で殺されたシリアの子供たちを、
命からがら脱北する北朝鮮の人々を想って、
一挙に落ち込むのです。(´-﹏-`;)


さ~て……ここからが本日の核となる話です。


昨今、何かというと『癒し系○○○』とか、
癒しの宿や、癒しの里とか宣伝されますが、
皆さん、それらに違和感、覚えません?

ってか……『癒し』って、なんでしょう。
どんな状態か、ご存知でしょうか?

ワンちゃん猫ちゃんと戯れたり、自然に触れ、
音楽などを鑑賞して得られるハッピィ感は、癒しというより、
安らぎや、 くつろぎを表すリラクゼーションじゃないでしょうかね。
癒しとは本来、病気が治る(癒える)ですし‥‥。

ですが人々は、『癒し』というニュアンスに熱狂します。
なぜでしょうね。

思うに……。
心の奥深く、
根深い不満があることに気づいていながら、
自らの内面に向かい合うことを拒み、
無意識に代償性の安らぎを求め、
癒されている“つもり”に浸っていたい?

そんなふうに思いません?
「自分は、こうしたい」と明確に判っていても、
欲求不満を解消したいと思っていても、
それを実行するためのエネルギーや、
環境変化(物心ともに)に伴う「恐怖」が、
結論を先延ばしにしているみたいな……。


!(・。・) おっと……偉そうに! ですよね。
そういう私も、若い頃はさんざん気を紛らわせました。
迷うばかりで決断、実行できなくて、
ヨガや、プール、登山など、どんなにのめり込んだことか……。(o´_`o)ハァ・・・

で、癒されたかというと、ぜ~んぜん!
つかの間の安らぎを得たに過ぎませんでした。(^_^ ;)
もっとも、端から『癒し』なんて大層なこと、求めていませんでした。
単なる気分転換、気晴らし、安らぎです。


では、本来の癒しとは何か……。
どんな状態になると、人は心底、癒されるのでしょう?

それはズバリ安心でしょうね。

とりたてては求めなくなる。
あるがままで幸せ。
自分への絶対的な信頼。

それが、安心……。
心が安らかな状態だと思います。

そこで、本来の癒し(安心)を得るための方法です。

自らの心や感情に正面から向かい合い、
見て見ぬふりしている「恐怖」の正体を掴み、 
その呪縛から解放されることでしょうね。
言いかえると、その決断と行動が起こるまで葛藤は続き、
決して癒されることはないと思います。


ですが、こんなふうに突き詰めると、たいていの人が、
『いいの、いいの、諦めてるし…』
と言います。

これ、諦めているのではなく、
代償性のメリットを優先させてるんですよねぇ。
(保証された収入、体裁、都合の良さ、etc。)

もちろん、それもいいと思います。
ただ、それを優先しているのは自分だと、判ることが大切です。
自覚があれば、
相手ばかりを責めなくなります。
自覚があれば、
自分の本当の望みが見えてきます。
なにがなんでも、と、叶うものなら、の、
情熱の差が鮮明になります。
で、執着の強い方が、あなたにとっての癒し(安心)だと、
心底、解るわけです。(決して諦めているのではない)( ˘ ³˘)



今日の記事は、『鍼灸オバちゃんの田舎暮らし18話』の中から
編集し直したものです。



人生の戦いはすべて、僕たちに何かを教えてくれる。
敗北でさえもそうなのだ。
人生の意味とは、自分がやりたいと思うことをすること。
今、沢山の人々が、生きるのをやめています。
この人たちは怒りもせず、泣きもせずに、
ただ、時間がすぎるのを待っているだけです。
         パウロ・コエーリョ



ポチが、励みになります!…(*´~`*)。o○

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エピソード/父ちゃん

 15, 2017 00:10
羊飼いの少年


一人きりの静寂な時間が好きだった私は、
小学5年ともなると、薪小屋の2畳ほどのスペースで寝てました。
ボロ屋ながら家はあったのですが、六畳二間と台所、
あとは豆腐屋家業の作業所という環境だったので、
父に頼んで小屋に台座を造って畳を入れてもらい、
念願のプライバシー空間を確保したというわけです。

しばらくして、捨て犬に遭遇。
よちよち歩きの子犬の可愛さに圧倒され、小屋で飼うことにしました。
名前は『シロ』……真っ白なワンちゃん、そのまんまです。
親に内緒ですから、あえて夕食を残して運んだり、
学校に行くときは少し戸を開けて、
子犬が自由に出入りできるようにしておいたのでした。
(村はずれの我が家、燐家は一軒だけ)

2カ月が過ぎても、親から咎められなかったので、
認めてくれたものだと思い、胸を撫でおろしました。
シロと遊ぶのが楽しみで、
学校からスキップしながら帰ったものです。

ところが、ある日、シロの姿が見当たりません。

『父ちゃん、シロ、知らん?』
『よう、知らんのう……どっかで遊んどるがやろぅ』

父を信頼していたので、母には聞きませんでした。
幼年期から貧困と辛酸をなめ尽くした母は、
無知蒙昧で、金の亡者のような人だったからです。

が、しか~し、です。
その日の夕方、台所から『すき焼き』の匂いが漂ってきました。
(((ʘ ʘ;)))おかしい!と、直観しました。
『すき焼き』なんて、わが家では大晦日だけのはず。
それも卵を得るための、自家用鶏をつぶして、でしたから‥‥。

(((ʘ ʘ;)))ま、ま、 まさか…そんなはずは…。
そう思いながら母屋に行くと、晩酌しながら父がい言いました。
『旨いぞ! 風子も食べんかぁ!』

心が凍りつきました。
ですが恐ろしくて、ストレートに聞けるはずもありません。
感情を押し殺し、その辺にあるもので夕食を済ませ、
流しに茶碗を運びながら、母の耳元で囁きました。
『あの肉、ひょっとして……シロ?』
苦笑いしたまま、母は答えませんでした。
(◎ー◎;)…それが何よりの答えだと、確信しました。

((((;゚;Д;゚;))))カタカタ …… なんてことを……((((;゚;Д;゚;))))
子供が可愛がってるワンちゃん食べるって、どんな神経?
肉食べたかったら、ウサギでも獲ってきたらいいやん!
鶏、つぶせよ…なんだってシロを…(´-﹏-`;)…o(;_;)o。

その日から3か月ほど、父と口を利きませんでした。
ですが子供なりに、父の人間性を俯瞰し続けました。

というのも、父は“良い人”だったんです。
感情を顕わにして怒ることなどない、温厚な人でした。
学歴こそありませんが博学で、なんでも教えてくれました。
即答できないことは、調べてでも、です。
焼酎好きで晩酌はしましたが、その後は読書して就寝。
雨風の強い日にはライフワークだった人相や手相学、
東洋医学や、薬草などの研究をしていました。

年に一度、すき焼き用の鶏を捌くときは、
『これが食道……これが砂袋いうてのぉ、
砂ごと突いて食べてしまう鶏の特徴ながよ。
面白いもんで、牛は胃が四つもあるがぜぇ』
などと、解剖学的な説明を加えてくれたものです。

大工でもないのに家を建てたり、機械修理もできるし、
絵もすこぶる上手なマルチ人間でした。
どう塗り直しても池の色が上手く描けず、
最終的に父を頼った展示会用の絵は、
郡が主催する中学生部門の展示会で、金賞に輝きました。
『池の色彩が突出して素晴らしい…』という評価で。(o´_`o)ハァ・・・。

父はまた、涙もろい人でもありました。
もともと正義感が強く、判官贔屓する人で、
情愛ものの浪曲なんかを聞いても泣いていました。

それが戦争体験となると、テンションはMAX。
晩酌をしながら、父は決まってフィリピンの話をするのですが、
私は毎回、相槌を入れながら上手に聞くよう努めました。
母があまりも不愛想で、父が気の毒だったからです。

日本軍は、フィリピンの村々で、大量虐殺を繰り返したそうです。
女子供、老人など、罪もない村人を、です。
泣きながら刃を向ける二等兵たちに向かって、
鬼軍曹が足蹴りして喝をいれたのだとか……。

戦局が不利に傾き、ジャングルを逃げ回るようになると、
飢えとマラリアで倒れる者続出。
人肉をむさぼる輩も現れ、
そのときばかりは死んだ方がましだと思ったそうです。

終戦になり、引き上げ船に乗ったとき、
残酷な命令を下した軍曹を、みんなで海に投げ込んだそうです。
父は加担しなかったそうですが、二等兵たちの心情に泣き、
それを止めなかった自分も同罪だと、泣くのです。
この話は何百回も聞きましたが、父は毎回、泣きました。


子供なりに、記憶にある父を回想すること3カ月。
とりあえずですが、父に対する憎しみが消えました。

『!(・。・)b 父ちゃんにとって、
シロは食料やったんや。
何も言わないって、変だったもんなぁ。
2か月って……太るのを待ってたんやぁ。
ウサギや、鶏、イノシシや、赤犬と同じなんやぁ。
もしかしてジャングルで飢え死にしそうになったら、
私だって、野良犬を食料にしたかも…… 』

赤犬というのは、もともと郷里の山に生息。
オオカミとの混血犬のことで、イノシシ同様、
かつては村人の食料として狩られていました。
父の話では、イノシシに似て美味だと言います。
父はまた、雪の日に罠を仕掛けてウサギを。
何匹ものマムシの皮を剥ぎ、
干して炙って、酒の肴にしていました。
そのワイルドな食の延長線上に、シロがいたわけです。

食べ物について、深く々、考えました。
自分は魚だってキジ(鳥)だって、喜んで食べた。
ウサギや鶏も、美味しかった。
都会に住む叔母ちゃんは、ステーキご馳走してくれた。
み~んな“生き物の命”食べている。
可愛いペットだから、って理由で、
父を恨み続けるってのも、なんか変かも……。
そう思って、許すことにしたのです。


久しぶりに実家を訪ねたとき(34歳)、父が言いました。
『わしゃ、もう死ぬけんの。皆の未来を占って書いておいたぜ』
『なんで?‥元気ピンピンやんかぁ』
『このところ毎晩のように、夢で母親が迎えに来るがよ』
『(((ʘ ʘ;)))……・』

躊躇はしましたが、思い切って“死”をテーマに雑談しました。
そんな方向にでも話を振らなければ、
いたたまれなかったのです。

『へぇ……。
けど、いい機会やから聞いておくわ。
父ちゃんは、人間、死んだら終わりやと思てる?
魂とか…どう思ってんの?』
『よっ、そりゃあ、人間、死んだら終いよ。
腐って土に還るがよ』
『そうかなぁ……。
私、魂は永遠やと思てんねん。
そしたらな、父ちゃん。
死んだとき、魂があるってわかったら、
私に合図してくれへん?
絶対やで!…約束してな!』
そう念を押すと、父は笑いながら頭を掻きました。

この会話の1ヵ月後、父は余命3カ月という宣告を受けます。
甚だしい黄疸で、目が真っ黄色……。
胆管、膵管が交差する厄介な場所の癌で、オペも不可能でした。


父が亡くなり数週間が経った頃、
私の心身に、顕著な変化が……。
父は、私との約束を守ってくれたのでした。
詳細記事はココ 身につくもの・つけるもの➁

エリザベス・キュプラー・ロス著『人生は廻る輪のように』の中で、
エリザベスは、魂や輪廻のあるなしで夫と口論になります。
怒った夫(外科医)が言います。
『もし本当に魂があるなら、僕が死んだとき、
お墓の前に、真紅のバラを咲かせてみせるよ』

で……奇しくも夫が急死。
娘と夫の墓に行ったエリザベスは、雪の日にも関わらず、
そこで真紅のバラが咲いているのを見て驚喜します。
『マニー、解ったのね! ありがとう…』 と……。


さて、話を今に戻して……。
“おしんの時代”と違い、空前のペットブームです。
夫より、妻よりもワンちゃん、猫ちゃん『命』。
そんな人々が圧倒的ですから、
こんな記事発信したら『どんな親やぁ!』と、
袋叩きになりそうですが……。(^_^ ;)

50数年もの間、誰にも打ち明けなかった、この話……。
最近、ひょんなことから、ある人にメールで告白しました。
折しも『洞窟おじさん』の映画を見たことが重なり、
父の思い出として記事にしておきたくなったのでした。

もっとも深刻な難民問題などは、
『洞窟おじさん』のサバイバルどころではありません。
船上で尿を飲んで水分を補給したとか、
亡くなった人の肉をたべたとか……。
そんなニュースを観るたびに、
スルーしてはいけない問題に思えたことも確かです。


さ~て、ここで質問です。
あなたが、ジャングルを彷徨う兵隊の一人だったとして、
飢え死か、生か、その選択を迫られたとき、
亡くなった同胞の肉を食べるでしょうか?

えっ?……。
そんなこと絶対にあり得ないから、答えられない、ですって?
それは、ずるい、逃避です。
よ~く、よく、考えてみませんか?

うん? (((ʘ ʘ;)))わたし?……。

飢餓の経験ないですからねぇ。
いざとなったら、それに耐えられず、
食べるかも?((((;゚;Д;゚;))))カタカタ。
ってか、それまでに、命、尽きてて欲しいですが、
自決する度胸なんてないので、
殺してもらえたら、喜んで食料になります。(^_^ ;)

こうして真剣に考えてみると、
飢えることのない現状は、それだけで天国ですよねぇ。(*^▽^*)




あらゆる動物において最も激しい欲望は、
肉欲と飢餓である。
ジョゼフ・アディソン(詩人、政治家、文学者)




ポチが、励みになります!…(*´~`*)。o○

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エピソード/超能力

 02, 2017 10:10
イルカと月①


38歳で営業職を辞めて、ある女性(Kちゃん)のセミナーに通いながら
プー太郎やってた頃の話です。

ある日、Kちゃんから『特別セミナー』ーの参加を促されました。
潜在能力を開発するためのセミナーで、
事業主や、スポーツ選手なども参加しているらしいとのこと。
二つ返事で受けました。
過剰な読書で頭が混沌としていた私には、
願ってもない内容に思えたのです。

内容は、次のようなものです。
⒈ 名刺で、20回連続で、割り箸を切断する。
⒉ 爪楊枝で、20回連続で、割り箸を切断する。
⒊ 厚紙に書いた文字を透視する。
⒋ 膨らませた風船に箸を通す。
この四種類の特訓でした。


セミナー会場に入ると、最初に講師陣による
デモンストレーションが行われました。
割りばしの両端を2人の講師がそれぞれに支え、
1人が名刺を持って立ちスタンバイ。
すぐに照明が消されて、
スポットライトに照らされたステージが浮かびあがりました。

講師たちは気合い入れ、精神統一を図りました。
すると、名刺が刃物になったかのように、
つぎつぎと割り箸を切断していくではないですか。
みごとな連続技に、
参加者全員が拍手喝采したのはいうまでもありません。


割箸切りは、臍下丹田に力を入れて45度の角度で切り込みます。
宮本武蔵の世界観なわけです。
その場合、腕力に頼ると名刺が折れ曲がり、
指先が箸に当たれば裂傷を負ってしまいます。
名刺を持った手もろとも身体全体を、
瞬時に落とすのがコツのようでした。

そうはいっても実際にやってみると至難の業でした。
格好良さに感動して楽しめたのは1~2時間です。
さらに連続20回という条件をクリアするのは、
並大抵のことではないと解りました。
10数回まで連続して切れたとしても、
20回までに失敗すれば振り出しに戻るからです。

このチャレンジ……食事休憩とトイレ以外は、
三日三晩、不眠不休で進行します。


何百回もの屈伸で膝が痛み、裂傷で指先が腫れあがる頃には
自らの、猜疑心との戦いが始まります。
いい歳をして、なんでこんなことやってんだろう。
かくし芸のひとつに過ぎないじゃん。
これができたからって、なんぼのもんやの。
3日間も寝ずに、ぶっ通す意味ってなんやの。
そうやって反発することで自分を慰めるわけです。



2日目の夜、係員に断って洗面所に向かいました。
汗だくの顔と、血まみれの手を洗うつもりだったのですが、
気がつくと、なぜかホースで頭から冷水を浴びていました。
すると不思議に邪念が吹っ飛び、頭の中が空っぽになりました。
脳が、思考を停止した感じです。

「風子、いきます!」 
会場に戻るや否や、私はただ一点を見つめて切り込んでいました。
肉体は名刺のように軽く、割り箸は異様に太く見えました。
切り込む角度がクローズアップされ、
まるで制御されているかのように、
肉体が上下運動を繰り返すのです。

突如、講師の手が伸びてきて握手を求められました。
事は、一瞬で終わっていたのです。
 
目標を達成すると、周囲の人々の苦闘が愛しく思えました。
そこで、挑戦者に寄り添うことにしました。
そばで念を送れば、彼らのパワーが増幅されるような気がしたのです。
もっとも時間の経過と共に次々と達成者は現われましたが、
最後に残された50歳過ぎの小母さんが、
今にも泣き出しそうに私を凝視しました。

「大丈夫、できるよ。必ずできる」 
思わず彼女を強く抱きしめていました。

「みんなで念を送ろう!」 
誰かが言いました。
その迫力に奮い立ったのでしょう。
小母さんは涙を拭い、覚悟を定めたかのような深呼吸をして、
一気に切り込みました。

愛のパワーが充満する会場に、
小母さんの気合だけが響き渡りました。

「ウォー、やったー!」 
喝采が小母さんを包みました。
それを機に、百数十名の参加者全員が、
代わる代わる抱き合いました。
苦しさと戦うことで、
個人レベルの価値観や優劣が消え去っていたのです。
(ちなみに、風子婆、優勝してました(^_^ ;))

不思議ですねぇ。
名刺による割り箸切ができると、爪楊枝で割り箸、ってのも
意外に簡単にできるのです。
(((ʘ ʘ;)))透視も、不可能から次第に、見えてきますし(成功率80%)
風船も破裂せずに、割り箸が入っていくのですから(◎ー◎;)‥‥。

その夜、大広間は消灯され、全員が大シャバアサナーに入りました。
大の字に寝転ぶことで筋肉を弛緩させ、
内なる自己を見つめるヨ-ガのポーズです。

暗闇にも関わらず、視界を埋め尽くす紫色に感激して、
私は泣いていました。
紫色は眉間の中央に位置するチャクラの色です。
それは第三の目と言われ、宇宙との交信ポイントだけに、
祝福を受けているような気がしたものです。

必要な時に、必要な人や物に恵まれた感謝の念が沸き起こりました。
途中、疑心暗鬼に見舞われたものの、
この訓練で、私は多くの教訓を学んだことに気がついたのです。

固定観念に縛られないこと。
心を解き放つこと。
無心になること。
自分を愛するように人を愛すること……。


この記事は、エリアンダーさんの動画を見ていてアップしました。
エリアンダーさん自身が発信している動画のアカデミー賞を
ご自分でランキング。その中の『幼稚園児 涙の挑戦』です。 夏への扉
この動画を見てて、自分の体験を思い出した、というわけです。

エリアンダーさんの動画は幼稚園児ですから、
それはそれは感動! うるうるですよo(;_;)o



が、しかぁ~し‥‥。
そのセミナーから帰って数週間もすると、
なんと、超能力が消失。
なんど試みても、20回連続ができないのです。


飲みにでも行ったら、披露しようと企んでいたのに……。(。・?_?・。)ムゥ…


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