離脱

 14, 2015 16:47
ふつうのオバちゃんも国際恋愛 (´∀`*)

19歳の冬、私はタイに向かう飛行機に乗っていた。

国際結婚を巡って母とは冷戦状態だったが、
上司から思わぬ長期休暇が許可され、下見旅行を実行した。
母との冷戦を傍観していた兄に、
下見を済ませたら必ず戻るという約束で借金して臨んだ旅行だった。

さまざまな思いが脳裏をかすめていた。
結果にもよるが、帰国すれば移住の準備に取りかからなければならない。
英語やタイ語のレッスンに始まり、家事や裁縫などを覚え、
移住のための資金を貯えなければならないと思っていた。

だが、職場でご法度のアルバイトを続けることができるだろうか。
専属のPOPライターに抜擢され、長期の休暇を与えてくれた
上司の期待を思うと胸が痛んだ。

果たして母の怒りが解ける日は来るのだろうか。
帰国後の孤軍奮闘を思うと体が震えた。

家族の見送りもないまま旅立つ自分を、
彼はいつまでも大切にしてくれるだろうか。
言葉や、文化の壁を越えられるだろうか。
彼の人生にとって、足手まといにならないだろうか。
神経が極度に緊張し、やがて何も考えられなくなった。

「くよくよ悩んでばかりしてんと、
8千メートルの上空から、地球を見て来い!」 

突然、上司の言葉が脳裏に浮かんだ。

窓の外に目をやると、果てしなく続く大陸の果てが、
曲線を帯びて霞んでいた。
アナウンスでは時速500㎞で飛行しているらしいが、
地上と違い、相対するもののないスピード感は
曖昧で実感を伴わない。

いつしかスカイブルーの天空を見据えていた。
すると時間が止まったような感覚になって、
それまでの思考パターンに揺さぶりがかかった。

タイを目指して一直線に飛んでいるつもりが、
実際はカーブしながら飛行していることを実感していた。
地上から飛行機を見上げていたのでは、
想像することもできない事実だった。

地球は丸いと知っていても、
知っているという状態は体験ではない。
曲線を帯びる地平線をめざして飛んでこそ、
直線だという思い込みの呪縛から解放される。
地球は丸いという知識は、体験ではない。
知識は、体験してこそ知恵となるのかもしれない。

ふと、思った。
1日という単位でさえも、絶対的ではない。
地球より質量の小さい月なら、1日は6時間。
宇宙では、その時間や空間さえも存在しないと
言われるではないか。

もしかしたら観念や感情を含め、地球上の全ての概念は、
つもりという思い込みなのかも知れない。
そう考えると、反って勇気が湧いてきた。
たかが恋愛である。
人の受け売りや、自身の予想めいた判断に一喜一憂するより、
行動することで知恵に生きれば、真実に迫れるに違いない。

微妙な濃淡を映し出した大空が、
無限の宇宙に繋がる薄い空気の層でしかないことを認識すると、
地球という星の表面を飛行する自分がミクロの存在に思えた。
自分の悩みなどウィルスのつぶやきにも満たないことだろう。

思考が止まり、体中の筋肉が弛緩した。

すると奇妙なことが起きた。
突如、私の精神だけが空間に抜け出し、
窓際の小娘を見て微笑んだのだ。(;゜0゜)

確かに微笑んだ。
その口元の感覚さえ自覚していた。
しかし同時に、
慈愛に満ちた眼差しを向けている自分は何者なのか。

それを考えようとしたとき、男の咳払いがした。
直後、意識が窓際の娘の肉体に戻った。

血の気がひき、額から冷や汗が流れた。
あれは…私の意識だった。
どうして浮かんでいたのだろう?
うん?……なら、このわたしは誰?
19歳の、肉体を持った小娘……。
なら、あの精神体はなに……?

気圧のせい?
錯覚?……妄想?
そう思おうとしたとき、
ドン・ムアン空港着陸案内のアナウンスが流れた。



意識が身体から抜けた、初めての体験だった。
まさかタイの田舎屋で、
何気ないひとときに離脱するとは……。<続く>



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